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オリヴァー・サックス 『タングステンおじさん』
≫戦争が終わったあとのある夏、私はボーンマスで地元の漁師から大きなタコをせしめ、ホテルの部屋のバスタブに海水を入れて飼っていた。生きたカニをやると、嘴のようにとがった口器で裂いて食べたので、ずいぶん懐いていたのだと思う。私がバスルームに入るときにも、すぐに私だとわかるようで、タコはさまざまな色に体を染めて感情を表現した。 ≫だが結局、そのタコをどうこうする決定権は奪われてしまった。ある日、部屋に入ったメイドがバスタブのタコを見つけてヒステリーを起こし、長い箒でつつきまくったのだ。パニックに陥ったタコは大量の墨を吐き、すぐあとに私が戻ってきたときには、自分の墨のなかででろんとなって死んでいた。 (斉藤隆央訳,早川書房,p.282/283) |
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スティーヴン・ジェイ・グールド 『八匹の子豚』
≫自動車の古タイヤの行く末を、これまで考えてみたことがおありだろうか。合衆国は、ほど人口に匹敵する数の自動車台数を誇っている。ということは、わが国は、人間の足の数の二倍近い数の車輪を擁していることになる。つまり、(一人当たりの所有靴数に関するイメルダ・マルコス係数のとりかたにもよるが)靴よりもタイヤのほうが多いわけである。私も、わが国で車の履き物が廃棄された後のことはあいにく知らないが、第三諸国において古タイヤの多くがたどる運命については見聞がある。切り分けられて、サンダルの底と紐に仕立てられるのだ(私は、キト、ナイロビ、デリーと、三つの大陸の青空市場で買い求めた古タイヤ製のサンダルを所有している)。 (渡辺政隆訳,早川書房,下巻 p.99)
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佐藤 信夫 『レトリック感覚』
≫ものをその名で呼ぶ、という率直な表現の美徳をおしえる教訓が、どこの国にもある。愚かな私たちはそれを額面どおりに受け取ってしまったようである。何も、もってまわった、しゃれた言いまわしを工夫するにはおよばない。ものにはたいてい本名があるから、妙に飾ろうとしないで、本名で呼ぶのがいい、・・・・・・という、俗物的な耳にはいりやすい言語写実主義の教訓が、私たちの楽天的すぎた科学主義 = 合理主義 = 実用主義と、さらには女の厚化粧にだまされたくやしさまで一緒くたになって、私たちの言語感覚を狂わせたのである。 私たちはいつのまにか、言語を、じゅうぶんに便利な、コミュニケーションの道具だと信じはじめていた。――作文も手紙も、心で書くものであるから、思ったことをすなおに正直に書けばよろしい、気取る必要はない――ことばは心を伝えるものであるから、形式にこだわるにはおよばず、思うままに書けばよろしい、古イ形式などはどしどし捨てたほうがいい――といったたぐいの、率直と自由、それぞれ四十五パーセントほどの真実をふくんだ教訓が奇妙に加算されて、私たちの頭を九十パーセントもつれさせた。その結果、言語は、技術的苦労なしに、すなおに正直に忠実にものごとを記述しうる道具である、という恐るべきうそを私たちは信じ込んだのである。 (講談社学術文庫,p.25-26) |
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四方田 犬彦 『ハイスクール1968』
≫わたしたちはどこまでも井の頭線の狭い区域を往復しているだけにすぎなかったのだ。大学生になったわたしはヒューバート・セルビー・Jr.というブルックリン生まれの小説家の短編を読んでいて、「彼女は different line に住んでいる」 という表現に出くわしたことがあった。それが、日頃使っている路線が異なっているという意味だと身に染みて感じられるには、実際にニューヨークに住んでみて、地下鉄の路線によっていかに社会階層やエスニシティーが異なっているかを実感してみなければならなかった。高校生のわたしたちは生意気に背伸びしてエンゲルスの 『空想から科学へ』 を読んではいたものの、自分の行動範囲がいかに中産階級という社会階層によって規定されているかという自覚からは遠かった。 (新潮社,p.82) |
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石川 准 ・ 倉本 智明 編著 『障害学の主張』
≫チラッと見て、あぁ腕に障害がある子なんやなぁ、と見てとった後は、まるっきり他の人に対してと同じように無視すればいいのかもしれない。でも 「無視する」 とは、ただ相手を見なかったり、相手に関心をむけない、ということではない。わたしがいかに相手を “適切に” 無視しているのか、を相手や周囲にたいして、さまざまなふるまいをすることで具体的に示しているのだ。こうしたふるまいはとても微細で、普段、そんなことをしているなんて、気づくことはまずない。でもわたしたちは、微細なふるまいをさまざまな場面で他者とともに “適切に” 実践することで、日常的な自然さをつくりつつあるのだ。 (明石書店,p.113) |
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川上 弘美 『蛇を踏む』
≫人と肌を合わせるときのことである。その人たちと肌を合わせる最初のとき、私はいつも目をつぶれない。その人たちの手が私を絡め私の手がその人を巻き、二人して人間のかたちでないような心持ちになろうというときも、私は人間のかたちをやめられない。いつまでも人間の輪郭を保ったまま、及ぼうとしても及べない。目を閉じればその人に溶け込んでその人たちと私の輪郭は混じりあえるはずなのに、どうしても目をつぶれないのである。 (文春文庫,p.44) |
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中村 うさぎ ・ 石井政之 『自分の顔が許せない!』
≫でも、ある年齢以降の女の人の化粧は、「普通の顔」にする化粧なんですよ。そうなったなと思った瞬間、老けたなと思うわけです。 ≫それは普通の女の人でも、毎日毎日メイクしている人は、ちょっと近所のコンビニに行くのも、すっぴんでは行けないと思っちゃいますよね。今はもう、どうでもよくなりましたけれど。なぜすっぴんで外に出られなくなるかというと、補正をかけたほうが、自分の顔になってしまうからなんです。 (平凡社新書,p.51/54) |
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中島 義道 『ウィーン愛憎』
≫私もウィーン滞在二年余りにして、ある日 「向かいの窓口にどうぞ」 と言われ、やはり 「なぜでしょうか、ずっとこの窓口で一年以上一三回も西ドイツ銀行に家賃を払っていたのですが」 と自然に説明を請うたところ、しばらく書類を眺めていた行員は、私の目をまっすぐ見据えると 「いままでの一三回がすべてまちがいでした」 と冷静に答えた。 (中公新書,p.52) |
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澁澤 龍彦 『フローラ逍遥』
≫吉野山の下の茶店で訊くと、「はい、いま、お山はちょうど満開です」 という。下の千本で訊くと、「はい、中の千本は真っ盛りです」 という。中の千本で訊くと、「上の千本へ行けば咲いております」 という。上の千本で訊くと、「はい、奥の千本は見ごろです」 という。そして結局、奥の千本には五本しか咲いていなかった。商業政策かどうか知らないが、吉野山には幻想の花がいつまでも咲いているわけであり、咲いていなければならない仕組みになっているらしいのである。 (平凡社ライブラリー,p.64) |
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